<第1回>60年の時を超えて復刻される「日本最初のプラモデル」

童友社
模型・玩具メーカー
日本屈指の玩具メーカー・問屋街である浅草蔵前エリアから車で10分ほどの荒川区。ここで長年にわたって事業を続けてきた老舗玩具・模型メーカー「童友社」があります。
今回のエピソードは童友社社長の内田宗宏さんに、<全2回>にわたって、創業からのエピソードや、商品の魅力について語っていただきます。
◆目次◆
<第1回>60年の時を超えて復刻される「日本最初のプラモデル」
<第2回>プラモデル業界において独自路線を貫く「童友社」の魅力
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御社が創業してから今日に至るまでの道のりをお聞かせください。
内田:
もともと私の祖父(内田一雄氏)がメンコなどの紙製玩具を1935年に製造開始しました。しかしながら、時代の流れと共に、そういった商品の主な売場であった駄菓子屋が激減してしまいます。
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そこからどのように事業の転換を図られたのでしょうか。
内田:
2代目社長である私の父(内田悦弘相談役)が、普段メンコを印刷している印刷工場で、メンコよりもたくさん印刷されているものを見たんです。それが「プラモデルのパッケージ」でした。そこからプラモデルメーカーへと舵を切ることになったのが1962年のことです。
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同じ玩具とはいえ、紙製とプラモデルでは全く製造方法が異なります。
内田:
そうですね。知識もゼロだし、自社開発するだけの資金力も無かったので、他社の使用していない金型を引き継いで製造・販売することからスタートしました。今でも「他社金型を引き継ぎ、アレンジして販売」するのは童友社が得意とする事業モデルとなっており、我々による再販を期待するお客様もたくさんいます。
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この業界ではかなり独特な事業モデルなのではないでしょうか。
内田:
狙ってやったというよりも、生き抜くためにはこの方法しか無かった、というのが正直なところかもしれません。今では自社開発商品も増え、海外商品の代理販売など、事業の幅も広げることができました。
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この「日本最初のプラモデル」であるノーチラス号も、もともとは他社商品として60年前の1958年12月に発売されたものですね。
内田:
もともとマルサン商店という日本初のプラモデルメーカーから発売されていた商品です。とはいっても、この商品の金型が欲しくて引き継いだというより、何個も仕入れた金型の中のひとつ、という認識だったと思います。
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「日本初」となると価値がありそうなものですが。
内田:
当時は「日本初」と打ち出していたわけではないですし、他にもっと売れる商品がありました。「60年前のプラモデル」ですから、当然ながら商品精度も現在ほど高くないわけです。
▲ノーチラス号のランナー。多少のバリも見られるが、それも逆に60年の歴史を感じさせる。
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そんな中で「日本初」という価値を見出したのは御社ならではの工夫ですね。
内田:
それくらいしか特徴が無かったんです(笑)。これまで周年ごとに4回ほど再販していますが、おかげさまで着実に売れています。時間が経てば経つほどこの商品の価値は高まっていくのかもしれませんね。
(▲Episoze編集部も「ノーチラス号」の組み立てにチャレンジしてみました!)
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童友社といえば「日本の名城」シリーズが有名です。こちらのシリーズも御社ならではの工夫があるのでしょうか?
内田:
元々は相原模型と緑商会という別々の会社で販売されていた城のプラモデルを統合してシリーズ化したのですが、価格もサイズもバラバラだった商品群を大・中・小と3分類し、価格もパッケージサイズも統一したことで、店頭に並べた際にお客様が選びやすいシリーズとなりました。
内田:
足りない商品は自社開発で一部付け足したり、ゼロから新規開発することでシリーズを増やしています。
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3つのサイズに絞ったことで、逆にシリーズ展開しやすくなったのですね。
内田:
姫路城は3サイズとも全く異なる商品ですが、中には3サイズ揃わない商品も出てきます。例えば大阪城のデラックスサイズは、スタンダードサイズの大阪城に周囲の城壁や木などの情景パーツを新規で加えることでデラックスサイズとしています。限られた資源の中で知恵を振り絞って商品化している点で、童友社らしい商品と言えるかもしれません。
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この定番シリーズの裏側にも、御社ならではの工夫が隠されていたのですね。
内田:
城の難しいところは「車のようなモデルチェンジが無い」ため、シリーズを増やしにくいところ。とはいえ、城のプラモデルを楽しむユーザー層も年々変化してきているので、今後も我々らしく知恵を振り絞り、着々とシリーズを拡大していければと思います。
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模型メーカーは職人気質な方々が多い中で、御社は一貫して商人気質で、時代の流れに合わせて事業をされてきている印象です。
内田:
内田家には代々「オタク」的な人間は一人もいません。でもだからこそ、フラットにお客様の声を取り入れることができます。何が売れるかわからないこの業界では、「知りすぎる」と往々にして失敗するんです。
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自分が好きなものを作るあまり、お客様のニーズを捉えきれない場合があると。
内田:
メーカーのエゴを押し付けてお客様を置き去りにしてしまうケースも多々見受けられます。弊社の場合は「詳しくない」と割り切っているので、お客様や販売店が優しく情報を教えてくれます。「この商品を販売したらきっと売れるよ」とアドバイスをくださるんです。
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「知りすぎない」ことが、逆に武器になっているのですね。
内田:
そうですね。「知りすぎない」からこそ、常に普通のユーザー目線で商品に対する判断ができます。フラットな判断を続けてこれたからこそ、これだけ長くメーカーを続けて来られたのだと思います。
◇◇◇◇
常にユーザー目線を忘れない童友社だからこそ、「日本最初のプラモデル」をはじめ、多くのプラモデル資産を絶やすことなく、現在まで発売し続けてこれたのでしょう。
次回、内田社長がここに到るまでの道のり、そして将来の展望について語っていただきます。
To be continued <第2回>プラモデル業界において独自路線を貫く「童友社」の魅力
取材・文・写真:小縣拓馬
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